豊川海軍工廠について
更新日:2018年5月3日
豊川海軍工廠
豊川海軍工廠は、海軍の航空機や艦船などが装備する機銃とその弾丸の主力生産工場として、昭和14(1939)年に開庁した巨大兵器工場で、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在です。当初は機銃部と火工部の二つの造修部門でしたが、戦局の拡大と呼応し昭和16(1941)年に光学部、18(1943)年に指揮兵器部、19(1944)年に器材部が新設され規模を拡大していきました。昭和18年には豊川市が誕生しますが、これは海軍工廠建設による人口増や旧町村の結びつきが強まったことを要因とするものであり、また20(1945)年8月7日の空襲では2,500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は豊川市の近代史を理解する上でも欠くことのできない歴史的事象です。
空襲後の豊川海軍工廠(正門付近)
豊川海軍工廠関連年表
年月日 | 内 容 |
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昭和11(1936)年 | 日本海軍が仮称「A廠」(後の光海軍工廠)と仮称「第二A廠」(後の豊川海軍工廠)の建設計画を決定 |
昭和13(1938)年6月1日 | 新設工廠用地に本野ヶ原を決定 |
昭和14年(1939)年12月15日 | 豊川海軍工廠開庁式 |
昭和16(1941)年12月15日 | 新たに光学部を設置 |
昭和18(1943)年6月1日 | 豊川町・牛久保町・国府町・八幡村が合併し豊川市が誕生する |
同年9月1日 | 新たに指揮兵器部を設置 |
昭和19(1944)年4月 | 学徒動員により、中学3年以上の学徒を動員 |
同年4月15日 | 新たに器材部を設置 |
同年11月23日 | 米軍機が工廠の爆撃を行う際の効果分析のため、上空より写真撮影を行う |
昭和20(1945)年5月19日 | 指揮兵器部第一機械工場付近に初めての空襲があり40余人の犠牲者が出る |
同年7月15日 | P51(ムスタング)が来襲し、機銃部銃架工場が被弾し負傷者が出る |
同年7月24日 | 工廠上空から多数の降伏勧告ビラ(伝単)がまかれる |
同年8月7日 | 豊川海軍工廠大空襲。米軍B29爆撃機124機による爆撃を受け壊滅的な被害を受ける。死者2,500人以上、負傷者1万人以上。 |
同年8月15日 | 太平洋戦争終結 |
豊川海軍工廠平面図
豊川海軍工廠の敷地は約200ヘクタールあり、周囲は堀と土塁などに囲まれていました。敷地内は碁盤の目のように91の区画に区分され、その中に整然と工場が配置されていました。