伊奈城趾公園
伊奈城は15世紀の中頃に本多定忠・定助によって築城され、上嶋城ともいわれていました。16世紀初めには牧野一門が城主となっていたことが知られていますが、天正18(1590)年8代城主本多康俊が、下総国(千葉県)小篠へ移封されるまで約150年間、伊奈本多氏の居城でした。伊奈城主の菩提寺東漸寺に伝わる古図によると、三方を河川と沼地に囲まれた要塞堅固な地に加えて、城下まで船便の良い地であったようです。永禄年間に大塚城主の岩瀬氏に攻められましたが、当時の6代城主本多忠俊は城を固く守り、同時に兵を御馬・梅藪に出して戦い、これを退けました。伊奈城の攻防で記録にみえるのはこの一戦だけです。下総国小篠へ移封後は廃城となり、それ以来400年余りを経た現在も土塁の一部と本丸の郭跡が残っています。特に土塁は室町時代の地方の平城を今に伝える貴重な遺構といえます。
場所
豊川市伊奈町柳38番地
利用日
年中無休
入場料
無料
花ヶ池公園
徳川家康の祖父、松平清康は三河統一を果たさんとして享禄2(1529)年に吉田城を攻めました。当時の伊奈城主本多正忠は清康に味方して先陣となり吉田城を攻略し、さらに田原城攻めへ向う途中、正忠は清康を伊奈城へ迎え、勝ち戦を祝ってお酒を献じもてなしました。その際、正忠は城内の池(花ヶ池)から採った水葵(日本名ジュンサイ)の葉に肴を盛って差出しました。これは中国の古典『春秋左氏伝』に書かれている「明らかな真心があれば谷や沼の水などでも神や王公に捧げ潔さと忠誠心を表す」と云う教訓に習ったものです。清康はこの心づくしに大変喜び「立葵紋は正忠の家紋なり、この度の戦に正忠最初から味方となり、勝ち戦して吉例なり賜らんと仰せありて」本多家の立葵紋を望み求められましたので、正忠は潔く承諾しました(藩翰譜より)。それ以降、立葵紋は松平清康の家紋となり、今も岡崎の随念寺にある清康の肖像画には立葵紋が描かれています。その後、この立葵紋は徳川家康の代に本多家との話し合いの上、葉の部分をデザイン化して三つ葉葵紋になっていったと伝えられています。
場所
豊川市伊奈町丸ノ内84番地1
利用日
年中無休
入場料
無料
伊奈城趾公園・花ヶ池公園は、徳川家の家紋「葵の紋」発祥ゆかりの地として、平成6・7年度に「愛知のふるさとづくり事業」の選定を受け整備したものです。
伊奈城趾公園・花ヶ池公園の位置図
伊奈城趾公園地図
花ヶ池公園地図