このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
豊川市 きらっと☆とよかわっ!
  • 音声読み上げ・文字拡大
  • モバイルサイト
  • English
  • Portugues
  • Espanol
  • 中文
  • サイトマップ
  • くらし・手続き
  • 子育て・学校
  • 催事・文化
  • 公共施設
  • 市政情報
  • きらっと☆とよかわっ!
サイトメニューここまで


本文ここから

「広報とよかわ」2015年8月号(特集)

更新日:2015年8月10日

特集(祈りの灯り 豊川海軍工廠被爆70周年)

今回は、豊川海軍工廠被爆70周年の特集記事をご紹介します。

平和都市宣言

昭和20年8月7日、私たちのまちでは、豊川海軍工廠の被爆によって、動員学徒や女子挺身隊員を含む工員、職員ら2千500名以上の尊い命が奪われ、身をもって戦争の悲惨さを体験しました。そして、この被爆と前後して、私たちの国は、世界で最初の核被爆国となりました。

私たちの国だけでなく、歴史上かつてないほど多くの犠牲者を出したこうしたことが、なぜ起きたのか、ともに考え、子孫に語り伝えていかなければなりません。戦争の惨禍を防止し、恒久平和を実現することが、私たち市民の願いだからです。

しかし、現実には、世界各地で武力紛争や戦争が絶え間なく起こり、核戦争の危機は、人類の生存に大きな脅威となっています。

私たち豊川市民は、人権を尊重しあい、平和を愛する心を育て、人類の絶滅につながる核兵器の廃絶を訴え、地球の平和と安全の確保を希求するため、ここに平和都市を宣言します。

平成7年8月7日 豊川市

このまちの記憶

原野に現れた兵器工場
「工廠」とは、軍に直属し、武器や弾薬などの軍需品を製造する工場のことをいいます。東洋一の兵器工場と例えられた豊川海軍工廠が建設されたのは、昭和14年のことです。軍需の拡大が進む当時の日本では、戦艦や戦闘機に搭載する機銃や弾薬を大量に生産する新たな工廠の建設に迫られていました。   

兵器の大量生産を可能とする広大な土地、輸送ルートや人材確保など、さまざまな条件から、当時、松や雑木林が生い茂る現在の豊川市穂ノ原への建設が決定します。

そして、建設工事の起工から、1年1カ月後の昭和14年12月に豊川海軍工廠は開庁を迎えました。

巨大化する海軍工廠と豊川市の誕生
開庁当初、弾薬や薬きょうを製造する火工部、戦闘機に搭載する機銃を製造する機銃部などが配置されました。その後、測距・照準などに用いられる光学兵器を製造する光学部などが増設され、敷地186ヘクタール、実に市野球場の100倍以上にもおよぶ巨大な軍需工場へと成長していきました。

これに合わせ、約1千500人で操業が開始された工廠の最盛期には、5万人以上の工員たちが従事することになります。 

豊橋駅から豊川市内へと延びる南大通(県道400号線)の敷設や、名鉄豊川線の開通など、豊川海軍工廠の設置によって、周辺地域の地図は短い期間で塗り替えられていきました。

このなか、旧豊川町・牛久保町・八幡村にまたがって建設された工廠の運営を整理することを目的に、昭和18年6月1日、隣接する国府町を含む、3町1村合併による豊川市が誕生しました。

厳しい管理下に置かれた工員たち
戦局の悪化により男性工員が召集されるなど、労働力が不足すると、未婚女性の勤労動員(女子挺身隊)や学徒動員も行われ、昭和20年には、12、13歳の国民学校高等科児童までもが動員されるようになります。

工廠は、南北に1千780メートル、東西に1千220メートルの敷地の中に700棟の工場が並び、周囲は、深い外溝と鉄条網で囲まれていました。また、工廠の出入口となる4箇所の門には複数の守衛が立っていました。入退廠時には、持ち物検査が行われ、家族の面会であっても、家族を示すたすきを肩にかけるなど、常に軍の厳しい管理下に置かれていました。休日であっても、工廠の工員としての行動が求められるなど、日常生活の全てにわたって、軍隊並みの厳しい規律が敷かれていました。

8月7日、午前10時13分
米軍は、昭和19年11月に撮影した工廠上空からの航空写真などをもとに、施設の構造などを研究し、空襲の計画を立案していました。米軍が作成した工廠の図面には、全ての建物に番号がふられ、破壊するために必要な爆弾の量などが分析されています。空襲の第1目標を豊川海軍工廠とし、天候不良により対象を目視できない場合は、第2目標である横須賀航空機工場への爆撃に切り替える計画としていました。

昭和20年8月7日、この日の日本列島は全域が大きな高気圧に覆われ、豊川市の上空は快晴であったと記録されています。10時13分、米軍第20航空軍のB29爆撃機124機と、P51戦闘機45機からなる大編隊が豊川海軍工廠を襲いました。10時39分までの26分間に、3千256発もの爆弾が投下され、逃げ惑う多くの人たちを飲み込んでいきました。総員退避の放送が遅れたため、退避する間もなく2千500人以上の尊い命が一瞬のうちに失われ、その数倍にもおよぶ人が負傷しました。

この空襲により、工廠の各施設は壊滅的な打撃を受け、焼け跡の片付けもままならぬ8月15日の終戦を迎えることとなります。

忘れられない光景

平和の語りべ
石原 千代子さん
昭和5年生まれ
14歳で豊川海軍工廠へ入廠
廠外にある女子寮で被爆を体験

私が学徒として、工廠に動員されたのは、昭和19年10月、14歳のときでした。

作業場では、旋盤で薬きょうにらせん状の溝を開ける仕事をしていました。油にまみれた手のひらは、鋭利に削られた鉄くずで、いつも傷だらけでした。

戦争が激化するなか、警報が発令される回数も増えていきました。警報が鳴るたびに、避難するため、布団を敷く間もなく、いつも丸めた布団に寄りかかって睡眠をとっていました。

8月7日の空襲の際、夜勤だった私は、寮の近くにある防空壕でその瞬間を迎えました。爆撃の衝撃で防空壕の土壁が崩れそうになるなか、「お母さん、お母さん」と泣きながら、みんなで抱き合っていたことを覚えています。

この空襲で、同年代の方がたくさん亡くなりました。空襲の翌日に見た、男女の区別がつかない黒焦げの遺体が今でも頭から離れません。

終戦を迎えるまで、工廠での作業は続きました。警報が鳴り響くたびに恐怖におびえた7日間を今でも鮮明に覚えています。

「死」が迫り、初めて生きたいと願った。

●平和の語りべ
浅若 桂さん
昭和4年生まれ
15歳の時、学徒動員により豊川海軍工廠へ入廠

豊川海軍工廠に入廠したのは、昭和19年9月、15歳のときです。国のために奉公することを教え込まれた私は、兵隊に憧れる軍国少年でした。

8月7日、工廠での作業中、突然、爆撃音と一緒に、工場の天井が崩れ落ちてきました。慌てて作業場の外に出ると、すでに、爆撃をうけた工員たちの死体がたくさん横たわっていました。

防空壕を目指して避難する間も、爆弾が投下され「ドカンドカン」と爆撃音が鳴り響いていました。

それは一瞬の出来事でした。防空壕のはしごをつたって地下に降りて間もなく、中央部に爆弾が投下されたのです。がれきと土にまみれ、口まで埋もれた私は、かろうじて鼻で呼吸ができるだけでした。わずかに動く右手で、少しずつ周りの土をどかしていきました。しばらくして、一緒に防空壕に飛び込んだ同僚が、背中合わせに、うめき声を上げているのが分りました。同僚の体は、死体と絡み合って動きません。助けを呼ぼうと、見上げた防空壕の入り口は、はるか高い位置にありました。この瞬間、初めて「死にたくない」という恐怖に襲われたのです。土や死体から体をのけぞり、なんとか地上に這い上がった瞬間、意識を失ってしまいました。

気が付くと病院で横になっていました。 

同僚と会うことができたのは、空襲から7日が経過した日のことです。お互い死んでしまったと思っていたため、対面の瞬間は声が出ませんでした。あの防空壕で生き残ったのは、私たち2人だけだったということを後になって知りました。  

平和の語りべとして活動する今、子どもたちには、被爆の体験を通じて、命のたいせつさを伝えています。たった1つの命であること、失ってもいい命はないということをこれからも伝えていきたと思います。

豊川市には、戦争体験を語り継ぐ「平和の語りべ」と呼ばれるボランティアの方がいます。小中学校などで開催する「戦争体験等を聴く会」に参加する子どもたちは、語りべの言葉に真剣な表情で耳を傾けています。
必死で生き抜いた体験者の声を聴くことは、戦争がいかに恐ろしく、悲惨なものであったかを知り、命のたいせつさや平和の尊さを考える貴重な機会となっています。

豊川稲荷境内の裏手に、豊川海軍工廠の空襲によって亡くなられた方の供養塔があります。ここでは、毎月7日・20日に、当時、工廠に従事していた方で構成された「八七会」の皆さんによる清掃が行われています。

供養塔の両脇に飾られた千羽鶴は、毎月2回、この日に取り替えられています。ひと月で合計4千羽になるこの折り鶴は、90歳を超える1人の女性会員の手によるものです。70年が経過する今も、亡くなられた仲間たちを思い、深い祈りが捧げられています。

記憶と向き合いながら、生きること。

八七会会長
大石 辰己さん
昭和4年生まれ
15歳の時、養成所見習工員第5期生として豊川海軍工廠へ入廠

これまで、自身の体験を口にすることはありませんでした。思い出すと胸がつかえて言葉が出なかったからです。少しずつ話をしていこうと思ったのは、孫から、戦争体験について話を聞かせてほしいと頼まれたことがきっかけの1つです。残された時間のなかで、戦争を体験した者の役目を考えるようになりました。 

入廠したのは、昭和19年3月末、当時、15歳のときです。養成所での訓練を経て、機銃部に配属されました。宿舎での生活は厳しく、毎週のように体罰が行われていました。角材で何度もたたかれるため、翌朝、椅子に座れないこともありました。

8月7日の空襲時には、千両の分工場にいました。避難するため、工場の裏手にある野木山に駆け上がると、目の高さに戦闘機の編隊が向かってくるのが確認できました。空襲警報と一緒に、穂ノ原の頭上に爆弾が投下されると、北門から人があふれ出てくるのが見えました。

爆撃が鳴り止み、急いで西門に向かうと、そこには、辺り一面、死体が転がる、筆舌しがたい、残酷な光景が広がっていました。

西門には、弾薬などが積み込まれた滑車が並べられていました。爆撃によって熱せられた弾薬が暴発し、パチンパチンと自分の方に向かってきました。敵を殺めるために作ったものが、皮肉にも四方から自分を襲ってきたのです。

その後、間もなくして終戦を迎えます。

今では、子ども、孫、ひ孫たちに囲まれ、幸せな生活を送っています。当時の記憶があるからこそ、今を幸せだと感じるのかもしれません。豊川海軍工廠での出来事は、忘れようにも、決して忘れることはありません。亡くなった仲間たちのことを思い、これからも、慰霊の灯をともし続けていきたいと思います。

継承される記憶

教育・学習の場を通して、豊川海軍工廠の記憶は、子どもたちに受け継がれていきます。

歴史に耳を傾ける

豊川高校教諭 伊藤泰正さん
豊川市の歴史を知る上で、工廠での出来事は、切り離すことはできません。しかし、今の子どもたちに戦争の悲惨さを伝えることは容易なことではありません。子どもたちの祖父母の大半は、戦後生まれであるため、日常の中で戦争について語られることも少なくなりました。身近で起きた歴史として認識するためには、体験者の声に直接耳を傾け、実際に触れてみることが必要です。

豊川高校には、私が学生だった頃から、工廠について学ぶ授業があります。現在、高校2年の1学期には、各クラスに語りべの方を招いて、戦争体験を聴く授業を設けています。また、毎年8月7日には、全校集会で「豊川海軍工廠学徒動員戦没者追悼式」を行っています。    

年に一度訪れる8月7日という日は、被爆された方たちを弔い、豊川市の歴史を見つめるたいせつな日です。工廠の出来事を知り、平和に向けた自分たちの答えを見つけ出してほしいと考えています。

私たちができること

豊川高校3年 飯田麻里衣さん
「私たちが経験したことを、次の世代に伝えてほしい」と話す語りべの言葉が心に残っています。

今の私たちと同年代で空襲を経験した語りべが話す悲惨な事実は、本やインターネットでは決して知ることができない、当時の悲しみや苦しさを私たちに伝えてくれます。

昨年、修学旅行の一環で長崎県の高校生と交流する機会がありました。被爆の歴史と向き合い、核廃絶に向けて未来を語る彼らの姿をみて、私たちに何ができるのかを考えさせられました。

豊川市に住んでいる人の中には、工廠での出来事を知らない人もいます。戦後70年をテーマとする今年の豊川高校の学園祭では、多くの方に工廠の歴史を知ってもらえるよな企画に取り組んでいきたいと考えています。

語りべの言葉やこのまちの歴史と向き合い、私たちができるかたちで、平和のたいせつさを次の世代につなげていきたいと思います。

たいせつなのは心で感じること。

代田小学校教諭 今泉 友子さん

代田小学校では、毎年11月に開かれる学習発表会で、豊川海軍工廠をテーマとした劇を上演しています。この劇を演じる6年生は、語りべの話を聞いたり、歴史を学んだりする事前学習のなかで、工廠に対する知識を深めていきます。子どもたちは、劇の練習を進めるうちに、当時の情景を思い描き、工員の気持ちになって演じようとします。「お芋に手を伸ばし、大事そうに食べる」という場面1つをとってみても、食料が不足していた当時の背景を学んだ子どもたちの表現は、とても豊かなものになってきます。知識として身につけるだけでなく、表現することで、「今の生活が当たり前のことではない、一生懸命生きていかなければならない」ということを体感するのです。

演じる子どもたちをはじめ、保護者の多くが、この劇で涙を流します。これからも、豊川海軍工廠という歴史を通して、子どもたちに、戦争の悲惨さや命のたいせつさを伝えていきたいと思います。

被爆から70年。~平和を未来へつなげるために~

市は、被爆50年の節目の年である平成7年に「平和都市宣言」を行いました。それ以降、平和祈念式典の開催や平和都市推進協議会の設立、桜ヶ丘ミュージアムでの海軍工廠展など、さまざまな平和事業を行っています。また、平和を尊ぶ心を育むために、工廠跡地に平和公園(仮称)の整備を進めています。

しかし、豊川海軍工廠の被爆から70年が経過し、戦争や工廠の記憶を継承することが難しくなりつつあります。

今を生きる私たちの使命は、戦争の悲惨さと平和の尊さをこれからも語り継ぎ、訴え続けることです。私たち一人ひとりが、豊川海軍工廠の被爆という悲しい記憶を風化させることなく、将来を担う子どもたちの明るい未来に向けて、平和のたいせつさを継承していかなければなりません。

平和を考える催し

豊川海軍工廠被爆70周年事業
日時 8月7日(金曜) 9:30~11:00《雨天決行》
会場 市野球場
内容 平和祈念式典の開催と併せた、小中高校生参加による被爆の再現劇
申込 当日、会場へ
問合せ 秘書課 89-2120

豊川海軍工廠跡地見学会
日時 8月7日(金曜) 13:00~/14:30~
会場 名古屋大学太陽地球環境研究所 豊川分室(穂ノ原3)
申込 当日、会場へ
問合せ 豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会 85-1199

豊川海軍工廠展
期 間 8月30日(日曜)まで(休館日を除く)
時 間 9:00~17:00
問合せ 桜ヶ丘ミュージアム 85-3775

「広報とよかわ」2015年8月号 トピックス

お問い合わせ

企画部 秘書課
所在地:442-8601
豊川市諏訪1丁目1番地
電話:0533-89-2121 ファックス:0533-89-2124

このページの作成担当にメールを送る

本文ここまで


以下フッターです。

豊川市役所

〒442-8601 愛知県豊川市諏訪1丁目1番地 電話:0533-89-2111(代表)
開庁日時:月曜から金曜 午前8時30分から午後5時15分 閉庁日:土曜・日曜、国民の祝日、年末年始(12月29日から1月3日)
法人番号:1000020232076(法人番号について
Copyright © Toyokawa City. All Right Reserved.
フッターここまでこのページの上へ戻る