新規の史跡指定として三河国府跡が文部科学大臣に答申されました

更新日:2023年10月20日

現況写真
三河国府跡中心付近の現況写真

国の文化審議会(会長 佐藤(さとう) 信(まこと))での審議を踏まえ、三河国府跡が新規の史跡指定として文部科学大臣に答申されました

1、内容等

種別:史跡
名称:三河国府跡
所在地:豊川市白鳥町上郷中(しろとりちょうかみごうちゅう)8番 外32筆 等
指定面積:10,855.67平方メートル

2、史跡指定の理由等

三河国府跡は、豊川市西部を南北に流れる西古瀬川(さいこせがわ)と音羽川(おとわがわ)によって形成された通称白鳥(しろとり)台地の先端付近に立地する古代三河国の国府跡です。国庁(こくちょう ※1)の正殿(せいでん ※2)と考えられる石組雨落溝(いしぐみあまおちみぞ ※3)を伴う四面廂(しめんびさし ※4)建物、後殿(こうでん ※5)と考えられる東西棟の大型掘立柱建物(ほったてばしらたてもの ※6)、南西では西脇殿(にしわきでん ※7)の可能性がある掘立柱建物、南東では東脇殿と考えられる長舎状(ちょうしゃじょう:長方形)の建物を確認しています。これら国庁の主要建物はコの字形配置をとり、囲繞(いじょう)施設(掘立柱塀)で囲まれています。

主要建物の配置や囲繞施設(掘立柱塀)は、その成立から廃絶までの間に大きな変化は認められませんが、発掘調査成果と出土した遺物の検討から、主要建物は9世紀初頭から10世紀中頃までの間に3期の変遷が認められます。出土遺物には蹄脚円面硯(ていきゃくえんめんけん ※8)、「國厨(くにのくりや ※9)」と墨書された9世紀代の須恵器(すえき ※10)、10世紀中頃に廃棄された緑釉陶器(りょくゆうとうき ※11)製の陶印(とういん)、緑釉陶器、製塩土器(せいえんどき ※12)など、国府における行政文書、給食、饗応(きょうおう ※13)などに関係するとみられる遺物があります。

三河国府跡の国庁が、コの字形の建物配置を採るようになるのは9世紀初頭で、その形状を踏襲しつつ10世紀中頃に廃絶することが明らかになっています。このことは、律令国家の地方支配の拠点となる国府の実態と変遷、さらには古代の地方支配の実態を知るうえで極めて重要な遺跡といえます。

【用語説明】
(※1)国庁・・古代律令体制下で各国に置かれた役所のことで、現在の都道府県庁に相当する行政機関です。
(※2)正殿・・国庁の中心となる建物のことを正殿といいます。
(※3)雨落溝・・屋根から軒下へ流れ落ちる雨水を処理する建物の周囲に設けられた排水施設(溝)のことです。
(※4)四面廂・・四周に廂を持つ建物のことです。
(※5)後殿・・正殿の後ろに位置する建物を後殿といいます。
(※6)掘立柱建物・・地面に穴を掘り、柱を立てた構造の建物を掘立柱建物といいます。
(※7)脇殿・・国庁内で役人が執務を行っていた建物のことです。
(※8)蹄脚円面硯・・墨を磨る「硯」のうち、硯面が円形で脚が馬の蹄のようになっているもの。特に高位の役人が使用したと考えられ、国庁のような施設を象徴する遺物といえます。
(※9)國厨・・国庁の部署のうち、食事の供給や食料・食器の調達・管理を執り行う部署のことです。
(※10)須恵器・・古墳時代中期から平安時代にかけてみられる青灰色の焼物を須恵器といいます。
(※11)緑釉陶器・・平安時代に生産された、緑色に発色する釉薬をかけて焼かれた陶器を緑釉陶器といいます。
(※12)製塩土器・・塩を製造する際に煮炊きに用いられた土器を製塩土器といいます。
(※13)饗応・・酒や食事などを出してもてなすことです。

現況
現況の航空写真

東脇殿
東脇殿の発掘調査状況

円面硯
発掘調査で出土した蹄脚円面硯

3、アクセス

(電車) 名鉄名古屋本線「国府」駅下車徒歩約15分
 ※駐車場はありませんので、公共交通機関でお越しください。

4、その他

三河国府跡については、今後の官報告示をもって正式に国の史跡に指定される予定です。
これまでの発掘調査箇所について、現在は埋め戻しているため調査状況を見学することはできません。
三河国府跡の現地には説明板1基を設置しています(説明板は総社境内)。
なお、史跡指定予定区域は私有地ですので、近隣住民に迷惑がかからないようマナーを守ってのご見学をお願いします。
また、これまでの発掘調査の成果や出土遺物については、三河天平の里資料館、豊川市桜ヶ丘ミュージアムにて展示しています。

お問い合わせ

教育委員会 生涯学習課
電話:0533-88-8035

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