戦国の城
更新日:2013年1月4日
長沢の城
長沢は東西三河の接点に位置し、左右から山が迫る細長い地形であり、谷底を東海道が通っています。古くから交通の要衝であるとともに戦略的にも重要な位置を占めてきました。
長沢の城位置図
長沢松平系図
広島市立中央図書館 浅野文庫 「諸国古城之図 三河長沢」
長沢城
所在、大字長沢字古城、立地、丘陵・標高92メートル(比高25メートル)
城の歴史
城のほぼ中央に「松平信光ノ子親則築キテ之ニ移リ、子孫数世之ニ居ル、長沢松平ト称ス」と刻まれた石柱があります。親則が城を築いたのは、長禄2年(1458)とも寛正年間(1460-65)ともいわれていますが、岡崎大門郷に長禄4年の親則あて「田畑預かり状」(『大樹寺文書』)が残されています。また、7代政忠まで岡崎の妙心寺(現円福寺)に葬られていることなどから、拠点は岩津城に置いて長沢城と兼務していたとも考えられます。桶狭間の合戦後、永禄4年(1561)長沢の城(岩略寺城とも登屋ケ根城ともいわれる)は、元康(家康)に攻められ落城しています。(『三河国聞書』)以後、長沢松平は家康の支配下に入り、8代康忠は家康の妹矢田姫を妻とし、宝飯郡内で領地を賜っています。
城の構え
現在は国道1号・名鉄・東名高連道路の開通や宅地造成によって、わずかに古城団地内の東側の藪に堀の一部と井戸(長沢保育園内)を残すのみとなっていますが、元禄12年(1699)の『三河宝飯郡長沢村御殿跡絵図』、『浅野文庫絵図長沢』から当時の城の様子を推測することができます。
「諸国古城之図」三河長沢の部分拡大
ほぼ50m四方の主郭の周りを三重の堀(村絵図)がめぐり、東西約200m、南北250mの大規模なものでした。どちらも近世の図であり、どこまで正確に表現されているのかはわかりませんが、浅野図には同時に描かれている岩略寺城より工夫された虎口の構造が見られます。主郭に設けられた虎口は、閉め切れば城壁と一直線につながる防御の固い内枡形になっています。
岩略寺城
所在、大字長沢字御城山、立地、山頂・標高174メートル(比高100メートル)
城の歴史
岩略寺城について詳しいことはわかっていませんが、信光が長沢四郎を攻め落とし、子の親則に与えた城も岩略寺城であったかもしれません。天文15年(1546)今川方の雪斉は、牛久保に100人長沢に50人4番交代で600人の兵員を田原攻撃までに配置するように命じています。(『雪斉宗孚書状』)ついで、天文20年勾坂六右衛門が長沢在城と、その普請を命じられています。その後、「永禄4年7月元康(家康)が牛久保攻めの帰りに、今川方糟谷善兵衛と小原藤十郎の守る長沢の城を、山路が狭く険しいことから、軍勢を二手に分け攻め落とした。」(『三河国後風土記』)とあります。
城の構え
岩略寺城縄張り図
東海道を北東に見下ろす交通の要衝に占められた城です。30メートル四方の方形に築かれた主郭にはL字型の土塁を施し、いくつかの腰曲輪を周辺にめぐらせています。北と北東・南東に分かれる3本の尾根筋に沿って大小20以上の曲輪が続きます。南(現在駐車場)と南東の尾根を大規模な堀切で切断し、尾根伝いに侵攻する敵を防ぎます。
北尾根の沢筋から登る道には、土塁によってくい違いの虎口をつくり、城内への進入を食い止めます。北東尾根の中腹に設けられた武者隠しは、攻め上がって来る敵を攻撃するために味方を隠した場所です。このように戦いのための城であったことが随所に伺うことができます。岩略寺城は、麓の長沢城へと役割が移っていったことで、近世における改修を逃れ、戦国期の山城の姿を現在に留めています。また、雨水を貯めたといわれる井戸跡が5ケ所あります。
登屋ケ根城
所在、大字長沢字番場、立地、丘陵・標高100メートル(比高15メートル)
城の歴史
長沢はもと関口庄といわれ、今川氏一族の勢力範囲でした。室町時代の初めに今川国氏の子経国によって城が築かれたといわれています。三河に侵攻してきた今川氏は、天文11年(1542)8月に織田・松平軍との小豆坂の戦いに敗れましたが、天文17年3月、再び小豆坂の戦いで勝利すると、西三河まで支配を及ぼすことになりました。しかし、永禄3年(1560)5月、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると、東三河の各地で今川氏への反乱が始まりました。「永緑4年(1561)、松平元康(家康)は、松平信一に登屋ケ根城を攻撃させ、今川氏の長沢城代糟谷善兵衛と小原藤十郎を駿河に追った」(『松平記』など)とあります。
城の構え
登屋ケ根城の縄張り図
小河川に挟まれた台地の先端に構えられています。南側の横堀は残りがよく、主郭からの張り出しを作っています。この張り出しから横矢を掛けます。虎口は東方向の台地続きに開かれ、南北の大規模な空堀が食い違い状になって、土橋を作っています。
城郭用語
曲輪(くるわ)…兵などを置くために、削って平らにしたところ
主郭(しゅかく)…近世城郭では本丸にあたり、城の中心になるところ
虎口(こぐち)…城の出入口
堀切(ほりきり)…尾根や丘陵の一部を切って作る空堀
土塁(どるい)…土を盛って築かれた防御施設
萩の城
萩は音羽川の支流である山陰川流域に発達し、三方を山に囲まれています。山陰川に沿って額田へと繋がっていく萩街道沿いに城の腰、萩城があります。
萩の城位置図
奥平氏家系図
奥平周防守の墓(善住寺)
萩城
所在、大字萩字下の坪、立地、丘陵・標高149メートル(比高30メートル)
城の歴史
戦国時代、萩の地を治めたのは作手奥平氏の一族、萩奥平氏でした。奥平氏は上野国小野荘奥平村に発祥しましたが、天授年間(1375-80)に三河国作手村に移り住みました。永享2年(1430)に家督を継いだ二代貞久は、松平親長に従事し、その後今川氏親について功を立て、作手36か村と宝飯郡の一部を支配するようになりました。この領地を貞久は7人の男子に分与し、四男主馬允が萩の地を与えられ、城を構えたと伝えられています。
城の構え
萩城縄張り図
山頂部に東西50メートル、南北20メートルほどの主郭があり、大手口に向って階段状に曲輪を配しています。北西尾根筋からの侵攻に備えて、尾根を二重に堀切り、主郭内の北西方面にも土塁を設けています。北には井戸曲輪があります。
城の腰(城の古址)
所在、大字萩字二反田、立地、丘陵・標高84メートル(比高6メートル)
城の歴史
城の腰付近
三代周防守勝次が居城していたといわれます。作手奥平信昌は、はじめ今川方に属していましたが、桶狭間の戦いで義元が戦死すると、武田信玄に従いました。しかし、天正元年(1573)信玄が病死すると、徳川方へ帰参し、天正3年信昌は家康の命を受け、長篠城主となりました。勝次は長篠合戦のとき、籠城した奥平七族の一人でした。
城の構え
県道が貫通して、半分ほど破壊されていますが、土塁と堀が残っています。
お問い合わせ
教育委員会 生涯学習課
電話:0533-88-8035