J1の舞台で輝きたい。ポジティブに前を向いて

更新日:2025年04月16日

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日本プロサッカーリーグ 「サンフレッチェ広島」 小原基樹

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豊川市出身のプロサッカー選手、小原基樹さん。2024年からJリーグ(日本プロサッカーリーグ)の名門、J1「サンフレッチェ広島」に所属している、地元期待の選手だ。
Jリーグはピラミッド型に、上からJ1、J2、J3とカテゴリー分けされており、J1は全選手が目指す夢の舞台だ。しかし多くの選手にとってこの厳しい道を一気に駆け上がることは容易ではない。そんな中、この快挙を成し遂げたのが小原さんだ。彼はわずか2年間という短い期間でJ3、J2を経験し、J1チームへの昇格を果たした。
サッカーキャリアの新たなページを開いた小原さんにお話を聞いた。

サッカーに夢中! ラランジャ豊川で才能開花

小さいころから体を動かすことが大好き。父がサッカー経験者だったこともあり、小学1年生の時に2つ違いの兄と一緒に地元のスポーツ少年団「御津SS」に入団した。すぐにサッカーに夢中になり、暇さえあればボールを蹴ってばかりいた。プロを夢見て、小学4年生で市内のクラブチーム「AS.ラランジャ豊川」(以下・ラランジャ)に所属。攻撃と守備の両方をこなすミッドフィルダー(MF)になった。現在、英国プレミアリーグでプレーしているユキ(菅原由勢選手)はラランジャの1学年下。小学生の時からすごくうまくて、仲のいいライバルという感じだった。今の彼の活躍には毎日刺激をもらっている。

中学生になると県のトレセンに選んでもらったり、3年生の時にはキャプテンを務めたりし、同年代の仲間たちと楽しみながら切磋琢磨。ラランジャの宮澤淳代表からサッカーの基本を叩き込まれた。運動は何でも得意だったが、その反面、勉強は嫌い。中学時代の塾通いも、「しっかり通った」というより、「うまくサボっていた」という方が正しいかも。

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【サッカーの基礎や楽しさを教えてくれたラランジャ豊川時代(右)】

プロを目指して宮城へ。高度なドリブル技術を身に着ける

高校は、サッカー推薦で宮城県の聖和学園高校に。聖和学園は一般的なパスまわしで攻めるサッカーではなく、足元の技術に特化したプレースタイルが特徴で、そこに面白さを感じて入学を決めた。恵まれた環境で思う存分練習に打ち込み、ドリブル技術を高めた。高校で身に着けたドリブルは今の自分の大きな武器になっている。2年生の時には全国高校サッカー選手権大会に出場。足首のケガで2か月間練習ができなかったことを除けば、順調な日々だった。3年時にはエースナンバーを付けてキャプテンを務め、充実した毎日を送った。キャプテンとしては、性格的にふざけてしまうことが多くて、仲間に対して強く言えないこともあった。その分フィールドでは、自分のプレーを通じて仲間たちを鼓舞し、引っ張ることに全力を尽くした。

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【現在のプレースタイルにつながるドリブル技術を覚えた聖和学園時代(中)】

大学は、関東リーグで勝負したい気持ちから上京も考えたが、愛知県みよし市の東海学園大学に落ち着いた。監督が魅力的だったことと、プロ選手を輩出していたことなどが決め手となった。自宅から1時間半かけて電車で通い、1年時から、ほぼ先発メンバーとして試合に出場。最初は周囲のレベルの高さに苦労したが、4年生の時にはエースナンバーを背に、東海学生サッカートーナメントに出場してリーグ優勝を果たした。大学サッカーで一番の思い出だ。一方で、少しだけ大学生らしい遊びとアルバイトも経験できた。バイト先は、子どもの頃から大好きなラーメン店「三河開花亭 豊川」。父の友人である店長がサッカーを優先した働き方をさせてくれて、本当にありがたかった。今も豊川に帰ったときは必ず顔を出す。

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【東海学園時代。エースとして東海学生サッカートーナメントでリーグ優勝】

J3、J2を経験。そしてJ1へと、異例のジャンプアップ

2021年、大学4年生の春、東海選抜メンバーとして地域対抗戦「デンソーカップチャレンジサッカー」に出場すると、プレーを見にきたJ2の「愛媛FC」からスカウト。プロへの道が開かれた。特別指定選手として在学中に公式戦デビューし、3試合目にはジュビロ磐田を相手に初ゴールを決めた。個人的には順調な滑り出しだったが、チームとしてはその年に降格。プロ1年目はJ3からのスタートとなった。

チーム加入の時には、「背番号はエースナンバーの10番がいいです」という自分の大胆な願いが聞き入れられ、その期待に応えようと、より高い場所を目指してプレーに臨んだ。鍛えたドリブル力を発揮し、積極的に相手を抜き去る。そんな戦いを続けた結果、その年のうちにJ1強豪の「サンフレッチェ広島」からオファーが届いた。「J1でプレーできる!」心の底から喜びが沸き上がった。J1でも通用するパフォーマンスだと認められたことがうれしかった。

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【プロデビューはJ3「愛媛FC」のメンバー。必死にボールを追いかけた】

骨折からの復帰。「小原の応援お願いします」

プロ2年目の2023年にはサンフレッチェ広島に完全移籍し、同時にJ2「水戸ホーリーホック」に1年間の期限付きで移籍。主力選手としてほぼフルで試合に出場した。その自信を胸に2024年、晴れてサンフレッチェに復帰。ところが現実はそう甘くなかった。選手たちのレベルの高さに、生まれて初めて「体調が万全なのに試合に出してもらえない」という苦しさを経験。さらに7月、左足を骨折して手術。3か月のリハビリを余儀なくされ、回復した時にはほぼシーズンは終わっていた。ただ元来ポジティブな性格なので、今も腐ることなく、前だけを向いて毎日がんばっている。
今後の目標は、まずケガをせず、しっかりと試合に出ること。自分をアピールして皆さんに輝く姿を見ていただきたい。地元の仲間たちも広島まで試合を見に来てくれると言ってくれていて、すごくうれしい。

豊川出身のサッカー選手といえば、真っ先に日本代表としても活躍しているユキの名前が挙がると思うけれど、自分も広島でがんばっているので言っちゃおうかな。「菅原より、小原の応援をよろしくお願いします(笑)」。

 

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【J2「水戸ホーリーホック」に1年間の期限付移籍。主力選手としてほぼフル出場した】

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【念願のJ1へ。「サンフレッチェ広島」で活躍を】

地元の「どんき祭り」。今でも行きたい!

子どものころ、地元の豊川市御津町の「どんき祭り」によく行った。天狗が子どもたちを追い回して赤い顔料を塗るというユニークな祭りで、塗られた子どもは病気にならず健康に過ごせるという言い伝えがある。幼いころは、天狗が怖くて泣いていたような気もするが、中学生になると逃げ足が速くなり、さらにサッカーで鍛えられた走力もあったので、ラランジャの仲間たちと一緒になって、天狗役の大人たちをからかって逃げ切るのが楽しくてしかたなかった。とても懐かしく、かけがえのない思い出だ。

すっかり大人になり、地元を離れた今でも、このどんき祭りを思い出すと心が躍る。「いつまでも続いてほしい。なんだか、今すぐにでもどんきに行きたくなっちゃった」。

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【小中学生時代のサッカー仲間で、現在は豊川市の職員をしてる友人たちと】

DATA

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小原基樹

プロサッカー選手。2000年(平成12年)3月9日生まれ。

豊川市御津南部小、御津中出身。

Jリーグ・サンフレッチェ広島所属。ポジションはミッドフィルダー。地元の少年サッカーチーム「ラランジャ豊川」でスキルを磨き、聖和学園高、東海学園大に進んで2021年に愛媛FCでプロデビュー。2022年、サンフレッチェ広島(期限付き移籍・水戸ホーリーホック含む)に移籍した。

170センチ、63キロ。