奥深い世界のとりこに。漫才師から落語家へ
落語家 三遊亭鳳月

豊川市で生まれ育った落語家の三遊亭鳳月さん。同郷の先輩・三遊亭萬橘さんとともに、豊川市を盛り上げてくれている。いじめられていた子ども時代。「いじめからお笑いに目覚めた。自分にとっては良かった」と鳳月さん。漫才師から落語家に転身して10年が過ぎ、真打昇進に向けて日々腕を磨いている。
笑いに目覚めたきっかけは「いじめ」
豊川市(旧宝飯郡小坂井町)で生まれ育った。子どもの頃は少し太り気味で内向的、人前に出ることが苦手だった。ところが、小学4年生の学芸会で演技力を評価され、思いがけず主役に抜擢。それをきっかけに、クラスの女子たちからのいじめが始まった。理由は、見た目のいい男子が選ばれなかったことへの不満のようだった。
母は、遊び人の父のせいで苦労していたため、心配をかけまいといじめのことは黙っていた。一つ違いの弟、亮は自分と同じ剣道部。エースで人気者だったが、さえない自分を慕ってくれていた。いじめのことは気づいていただろうが、見守ることで兄の立場を守ってくれていたのだと思う。
転機は中学2年の給食時間。いつものように椅子を隠され、「もうどうでもいい」と思いながら空気椅子のように座って後ろに転がった。すると教室は大爆笑。空気が変わり、そこからいじめは消えた。冗談ひとつ言えなかった自分が「面白いヤツ」と見られるようになった瞬間だった。この経験が、芸人の道を志す原点となった。
暴走族から吉本へ。兄弟コンビ「若月」結成
中学3年になると身長が伸び、体つきもすっきりした。文化祭では漫才やコントに挑戦した。「ウケなければ再びいじめられるかも」という恐怖から必死にネタを作った。高校では、面白いヤツと思われたい一心で派手な行動を繰り返し、仲間と暴走族を結成。といっても時速30キロ、迷惑をかけぬよう大通りに出てからエンジンをかけるという真面目(?)な活動。メンバーは夏休みのアルバイトでためたお金で免許を取り、オートバイを買い、改造費を捻出していた。
卒業後は芸人を目指し上京。何も分からず1年を過ごした後、東京吉本の存在を知り、「ここだ」と直感。「てっぺんとるぜ」と一人息巻いた。自動車整備などで4年間働いて資金を貯め、24歳で養成所に入学。東京に来ていた亮を相方に誘い、兄弟コンビ「若月」を結成した。弟は本心では漫才に乗り気ではなかったが、大好きな兄のために付き合ってくれたんだろうと思っている。

兄弟コンビ「若月」時代(©YOSHIMOTO KOGYO CO.,LTD.)
漫才の挫折と落語との出会い
売れるにはキャラが必要と考え、リーゼントのヤンキー芸人に変身。高校時代は角刈りとかだったので、実はリーゼントは初体験だった。それが受けてテレビ出演も増え、俳優業も経験した。

映画「ドロップ」で「ワン公/山崎秀樹」役で出演
こうして6年目、「MCができる芸人」という次のステージに進むため、リーゼントを封印。「実力さえあれば、見た目なんて関係ない」と高をくくっていたが、仕事の依頼は激減した。8年かけてライブの評価制度を勝ち上がり、ルミネtheよしもとの舞台にも立てるようになっていたが、モチベーションが戻らず、10年目にして弟と解散を決断した。

弟はすぐに就職したが、自分は立ち止まったままだった。だが「もう一度舞台に立ちたい」との衝動に駆られYouTubeを見漁る中、落語に出会った。かつて劇場で目にしても興味を持てなかった落語が、不思議と「これならいける」と思えた。根拠のない自信が再び胸に灯った。
粘りに粘って弟子入り。厳しい修行の日々
多くの落語家の高座を見て、惹かれたのは六代目円楽門下・三遊亭鳳楽師匠。派手な笑いではなく、同じ枕でも必ず客を引き込む話術に、芸人時代の10年を矯正してもらえると直感した。
しかし当時35歳だった自分は、真打昇進までの年月を考えると弟子として取るのは年齢的に難しいと断られた。諦めきれず雨の日も風の日も師匠のもとに通った。最終的に喫茶店で直接話す機会を得て、「30歳までなら取る」と言われ、30歳のようなふりをして弟子入りが叶ったのだった。
修行は当然厳しい。師匠からは「自分でマンション借りて住め」と突き放された。前座は日当も少しだけで、先輩の仕事も手伝って生計を立てた。振り返れば、早く独り立ちさせようという師匠の親心だった。今では、師匠とは何でも言い合える間柄だ。
3年半で前座を終え、二ツ目へ。ようやく自分の芸ができると思った矢先、師匠から「落語に入る前に個性を出すな。落語がチープに見えちまうから。どんなヤツかわからないほうがいいんだよ」と命じられる。漫談を封じられ全くウケない日々に苦しんだが、地道に演じ続けるうち少しずつ本来の落語で客の笑いを得られるようになった。それ以来、枕がほぼない落語のスタイルでやってきている。

二ツ目披露興行に東京NSC8期生のメンバーがお祝いに
落語を極め、故郷・豊川に恩返しを
ここ数年で、故郷・豊川市との縁が深まった。きっかけは同郷の先輩・三遊亭萬橘師匠。市内で開かれている独演会の共演者として声をかけていただいたこと。豊川市内の小中学校で高座を務めさせてもらったり、友人との縁でお寺での落語会など地元の舞台も増えた。地元での高座は、「絶対に面白くしたい」という気持ちから、どこでやるよりも緊張するが、家族が見に来てくれたり、同級生と交流できたりして楽しい。

地元豊川で落語を披露(三遊亭萬橘師匠の独演会にて)
漫才師が「新しい面白さを生む発明家」なら、落語家は「同じ台本に深みを加える職人」。落語は同じ台本でも、話術で深みを増していく。古典落語の「寿限無」も師匠の教えで言い方や間を工夫して8年演じ続けたら、ある日突然会場が大爆笑した。あの時は、落語の奥深さを実感した。今も歌舞伎や長唄を学びながら芸を磨いている。
真打昇進まであと数年。50歳までにはその座を掴みたい。いつか「あいつ、売れたな」「帰ってきたな」と地元の皆さんに言ってもらえるよう、落語で豊川に恩返しをしていきたいと思っている。
今年も地元豊川で9/28(日曜日)に開催する「三遊亭萬橘独演会2025」に出演する。
詳細はこちら:三遊亭萬橘独演会2025

江戸川区瑞江寄席の打ち上げ(左から、7代目三遊亭円楽さん・三遊亭好楽さん・三遊亭鳳月さん)
DATA
三遊亭鳳月 (さんゆうていほうづき)
本名若月徹。豊川市(旧宝飯郡小坂井町)出身の落語家。豊橋工業高校(現・豊橋工科高校)卒業後、上京。吉本興行で弟の亮と兄弟漫才コンビ「若月」として活動。テレビ「すべらない話」、「踊るさんま御殿」などに出演。また俳優として映画「ドロップ」(角川映画)などにも出演。
2012年 三遊亭鳳楽に師事し、落語家に転身
2015年 三遊亭鳳月(さんゆうてい ほうづき)の芸名を授かる
2018年 円楽一門会所属の二ツ目に昇進
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更新日:2025年09月26日