フェニックス一筋18年・ふるさと豊川に感謝
元プロバスケットボール選手 太田敦也
豊川市で生まれ育ち、バスケットボールBリーグ「三遠ネオフェニックス」などで18年間プレーし、2025年に引退した太田敦也さん。現在はフロントスタッフとして活動している太田さんに、少年時代から、日本代表を務めた全盛期、引退した今だからこそ感じる豊川の魅力などについて聞いた。
バスケットボールより柔道が好き?小学校卒業時に身長179センチ!
花井幼稚園、豊川小学校、豊川東部中学校、そしてプロバスケットボール選手になってから今日に至るまで、高校と大学時代を除いてずっと豊川で過ごしてきた。
バスケットボールを始めたのは、小学4年生の10歳の時。豊橋のミニバスケットボールチームがスタートだった。背が高かったことや、姉と兄もバスケットボールをしていたことがきっかけだ。とはいえ、当初は熱中していたというよりは、兄姉の背中を追ってという程度だった。
小学校卒業時には179cm。身体が大きかったことで、着るものや靴には苦労した。学校の上靴はサイズがなく、外用の白い靴で代用。ランドセルに至っては窮屈で背負えず、仕方なく片方の肩にかけて通学した。
中学校ではバスケットボール部に入ったが、本当は柔道部に入りたかった。小学校時代は6年間柔道を習っていて、バスケットボールより好きだったからだ。しかし中学に柔道部がなかったので、「じゃあバスケットボールやろうかな」という、本当に軽いノリで続けることになったのだった。そんなふうに始めたバスケットボールが、まさかプロの世界へと繋がっていくとは、当時は想像もしていなかった。

小学生の時、バスケットボールよりも打ち込んでいた柔道(後列中央)(提供:三遠ネオフェニックス)
恩師との出会い、そしてプロの世界へ
中学時代は、部活の上下関係などにわずらわしさを感じ、相変わらずバスケットボールにそこまで強い意気込みはなかった。それでも休むことはせず、練習には通い続けた。
中途半端だった自分の運命を変えたのが、中学3年生の時。きっかけを作ってくれたのは東部中学校の中野勝之校長だ。浜松・東三河フェニックスの初代ヘッドコーチで、当時はその前身のオーエスジーフェニックスのヘッドコーチだった中村和雄さんに「デカいのがいるからちょっと見てくれ」と声をかけ、校長室で面会させてくれたのだ。中村ヘッドコーチから、「今日から練習に来い」と言われ、その日からフェニックスの練習に混ぜてもらうようになった。バスケットボールに対する向き合い方が180度変わった瞬間だった。

バスケットボール部でも抜きん出て背が高かった(後列右端・豊川東部中学校時代)(提供:三遠ネオフェニックス)
部活動以外の学校生活は、平和そのものだった。中学のうちに身長は2メートルを超えていたので、自分はかなり目立つ存在。一方で勉強が苦手で無口というキャラクターだったので、からかわれてもおかしくない状況だったと思う。でも実際はいじめられたり茶化されたりしたことはなく、いつも仲間の輪の中で笑っていられた。先生方も特別扱いせず公平に接してくれたおかげで、学校はとても居心地の良い場所だった。
プロ引退時、その仲間たちがねぎらいの言葉を添えた花を贈ってくれた。思いがけないプレゼントに心を打たれた。

楽しかった東京の修学旅行で。左は当時の中野校長(提供:三遠ネオフェニックス)
この中村ヘッドコーチとの出会いを機に、全国の強豪高校約80校から声をかけていただき、千葉県の市立柏高校に進学することになった。最初は三河弁が通じないことに驚くなど戸惑いもあったが、下宿生活も食事も満足。バスケットボールに関しては、入学時の自分は素人同然のレベルと痛感し、練習の量も内容も経験したことがないレベルで苦労した。

千葉県の市立柏高校でプレー(提供:三遠ネオフェニックス)
高校では苦い思い出がある。1年生のウインターカップの予選。自分のフリースローがことごとく入らず、当たり前だった全国大会出場を逃した。3年生にとって最後の試合、申し訳なさでいっぱいになった。それでも恩師や仲間たちに恵まれてバスケットボール漬けの毎日を送り、3年連続でインターハイや国体に出場できた。一緒に汗を流したチームメイトには、現在タレントとして活躍している副島淳氏がいて、引退セレモニーではプレゼンターを買って出てくれた。

2025年の引退セレモニー。背番号8は永久欠番に(提供:三遠ネオフェニックス)

セレモニーに駆け付けた、旧友でタレントの副島淳さんと(提供:三遠ネオフェニックス)
地元から世界へ 日本代表で活躍

日本大学時代(提供:三遠ネオフェニックス)
日本大学に進学してからもバスケットボールを続け、インカレで優勝した。日大時代はプロになることよりも、中学からお世話になったフェニックスへ戻ることがいつも頭の片隅にあった。そしてその思い通り、2007年、オーエスジーフェニックスに入団した。
翌年、チームは日本初のプロバスケットボールリーグ「bjリーグ」への参加にともない、名称を「浜松・東三河フェニックス」に改名した。中村ヘッドコーチのもと、3度の優勝を果たすことができた。
そして2011年、日本代表に選出された。苦労も多かったが、10年間も日本代表を務められたことは、自分にとって何よりの誇りだ。八村塁選手とプレーできたのも良い思い出になっている。

(提供:三遠ネオフェニックス)

(提供:三遠ネオフェニックス)
2015年にチームは地域密着を掲げ、「三遠ネオフェニックス」として現在のBリーグに参入。2度の地区優勝に貢献できた。優勝の喜びやチームが苦しい時期、コロナの無観客試合も経験したが、どんな時も離れずに応援してくれたブースターさん(ファンの皆さん)や地元の企業さんの応援がうれしかった。
引退した今でも、自分はあまりバスケットボールがうまくなかったと思っている。それがプロとして鍛えられたことで、チームに献身的なプレーで貢献できて本当に良かった。

2024-25シーズン地区優勝/大野ヘッドコーチと抱き合い喜んだ(提供:三遠ネオフェニックス)

ともにシーズンを戦った仲間たちと(後列中央右)(提供:三遠ネオフェニックス)
変わらないふるさと「豊川」の魅力
プロを引退し、現在は「株式会社フェニックス」のフロントスタッフとして豊川のまちを回っているが、今だからこそ強く感じる豊川の魅力がある。それは、「住みやすさ」と「安心感」。東京や千葉での生活も経験したが、どれをとっても不便を感じることがないし、生活の基盤として、ここを拠点として住んでいられる「安心感」がとても大きい。
また、子育てをする上でも、公園や施設が多く、福岡県出身の妻も「子育てしやすい」と言ってくれている。自分のお気に入りは豊川公園。開放的で、色々な背景を持つ子どもたちが分け隔てなく遊べる場所があるのは、本当に素晴らしいことだと思う。豊川は「刺激が少ない」かもしれないが、それが日々の生活においては最高の環境だと感じている。プライベートでは家族で出かけることが多い。写真を撮りに行ったり、美味しい店を探しに行ったりする。特に市内のガレット店がお気に入りだ。

東京オリンピックの聖火ランナーとして(豊川稲荷で)

豊川市出身のサッカー日本代表、菅原由勢選手(左)と
地域に根差したチームを目指して
これからもバスケットボールを通して、お世話になった豊川市や三遠地域に恩返しをしていきたい。優勝も大切だが、自分が目指しているのは「フェニックスが日常になること」だ。豊川の人々の日常の会話で、「フェニックスが勝ったね」という言葉が自然と出るようになる。そんな風に地域に愛されるチームになってくれることが一番の願いだ。そのために、フロントスタッフとして全力でチームを支えようと思う。フェニックスと共に豊川を盛り上げていきたい。

スポーツ功労賞を受賞 竹本市長と/加藤ゆかさん(ロンドン五輪水泳銅メダリスト)以来2人目

選手時代、小学校で開かれたバスケットボール教室
DATA
太田 敦也(おおた あつや)
豊川市出身の元プロバスケットボール選手。身長206cm。
三遠ネオフェニックスのセンターとして18年間プレー。
日本代表としても活躍。
現在は三遠ネオフェニックスのフロントスタッフとして活動中。
三遠ネオフェニックス現役時代の背番号8は引退を機に永久欠番になった。



更新日:2026年03月03日