世代を超えてつなぐ、平和への思い
豊川海軍工廠語り継ぎボランティア /宮下喜夫 ・丸山未夢
終戦を目前に控えた昭和20(1945)年8月7日。雲ひとつない真夏の青空は、一瞬にして激しい爆撃の煙に覆われた。豊川市の中心部にあった「豊川海軍工廠」を襲った空襲。多くの動員学徒を含む2,500人以上の尊い命が失われたあの惨劇から、すでに80年以上の歳月が流れた。人々の記憶から当時の光景が薄れつつある今、その歴史を語り継ぐ戦後生まれの語り手たちの役割はますます重要になっている。
そんな中、「豊川海軍工廠平和公園」を舞台に、現在約70人の語り継ぎボランティアが活動を続けている。今回はその中から、歩んできた時代も経歴も全く異なる2人にスポットを当てた。
語り継ぎボランティアの初期メンバーとして、活動8年目を迎える宮下喜夫さんと、高校生でただ1人の語り継ぎボランティアとして、2025年に活動を始めたばかりの豊川高校3年生の丸山未夢さん。2人の年齢差は50歳以上だが、「豊川海軍工廠の歴史を次の世代へ伝えたい」という共通の思いがある。
2人が語り継ぎボランティアを始めたきっかけや活動を通して感じていること、未来への期待について聞いた。

豊川海軍工廠・空襲のあとの惨状。正門正面から見た南東方面(豊川市桜ヶ丘ミュージアム提供)
一本の映画と、父親との何げない寄り道
宮下さんが「豊川海軍工廠語り継ぎボランティア」を始めたのは、豊川海軍工廠平和公園がオープンした2018年6月。きっかけとなったのは、旧豊川海軍工廠跡地で毎年行われている見学会にたまたま参加したことだった。
そこは以前、映画『早咲きの花』の撮影で主演の浅丘ルリ子さんが訪れた場所。同じ地に立って昭和のスターを身近に感じたこともあり、「もう少し、海軍工廠のことを知りたいな」という気持ちが芽生えた。
その後、平和公園の開園前に、第1期の豊川海軍工廠語り継ぎボランティア養成講座が開かれることを知った。定年退職した頃で、妻から背中を押されたこともあって、65歳で受講を決めた。
活動を始めてからは、旧豊川海軍工廠だけでなく、故郷である長野県飯田市の戦時中の歴史にも目を向けるようになった。飯田中学校(現・飯田高校)の校舎が豊川海軍工廠の疎開工場として使われていたことなどを知り、戦争の歴史を自分にとってより切実に考えるようになっていった。
豊川海軍工廠跡地の見学会(豊川市教育委員会主催)
一方、丸山さんのきっかけは、日常の中のささいな出来事だった。
2024年、高校1年生のある日、父親と車で粗大ごみを捨てに行った帰り道、父の誘いで平和公園へ立ち寄った。
小学校の学習活動で訪れた際、「怖い」という印象ばかりが残っていて、あまり乗り気ではなかったが、現地で、女性の語り継ぎボランティアの説明を聞くうちに、その気持ちは大きく変わった。
「語り継ぎって、すごい役割。自分は人前で話すことが好きだから、いつかやってみたい」。
海軍工廠の歴史そのものというよりも、それを伝える語り手としての役割に興味を持ったのだった。そして翌年、第3期の豊川海軍工廠語り継ぎボランティア養成講座(全5回)を受講し、語り手としての一歩を踏み出した。
一本の映画との出会いと、父親との何げない寄り道。2人の語り継ぎボランティアとしての歩みは、それぞれ異なる入り口から始まった。

豊川海軍工廠語り継ぎボランティア養成講座の様子
緊張の初舞台を越えて、自分らしい伝え方へ
語り継ぎボランティアの活動には、一般の来園者や団体客の案内、市内の小学6年生を対象とした平和学習の対応などがある。
第1期生として活動を始めた宮下さんは、手本となるものが少ない中、手探りで案内の方法を築いてきた。資料を読み込み、自分なりに情報を整理して、案内用のノートも作った。
特に、子どもたちに興味を持って話を聞いてもらうためには、伝え方の工夫が欠かせない。同じ内容を説明しても、相手の年齢や関心によって反応は異なる。どうすれば分かりやすく伝わるのかを考えながら、現在も案内の内容を磨き続けている。
小学生に海軍工廠の説明をする語り継ぎボランティア
ガイドをする宮下さん
丸山さんが初めて案内をしたのは、ボランティアに登録したばかりの高校2年生の8月、「愛知県高校生フェスティバル」の交流イベントのひとつだった。
県内から平和公園に集まった同世代の高校生たちを前にした初舞台。真剣な表情でメモを取って耳を傾ける生徒たちに対して、緊張のあまり思うように話せず、大半を先輩のボランティアに語ってもらう悔しいデビューとなった。
その後は先輩の案内に同行し、施設の鍵を開ける作業から、説明の順序、質問への答え方まで、一つずつ学んでいった。
現在は月に1、2回ほど週末の活動に参加し、自らマイクを持って来園者を案内している。
時には答えるのが難しい質問を受けることもあるが、分からないことをごまかさず、相手と向き合いながら丁寧に伝えることを大切にしている。

高校生フェスで、県内の高校生たちを案内する丸山さん(豊川海軍工廠平和公園で)
奥に見えるのは、戦争遺跡の「旧第一火薬庫」 戦中、建物の構造体に土をかぶせ、火薬を保管した。
体験者の声を訪ね、地域へ伝える
2人の活動は、平和公園内での案内だけにとどまらない。
宮下さんは、住まいがある市内三上町周辺に暮らす90代の戦争体験者を訪ね、当時の記憶を聞き取っている。
「空襲をどのように体験したのか。戦時中をどのような思いで過ごしていたのか。一人ひとりの言葉に耳を傾け、その証言を記録してきました。体験者から直接聞いた話を案内に取り入れることで、来園者にも過去の出来事をより身近に感じてもらえています」。
平和公園での活動のほか、地域のサロンでの講座やケーブルテレビの番組などにも参加し、幅広い世代へ戦争の記憶を伝えている。
戦争を体験した人から直接話を聞ける時間は、これからますます限られていく。聞いた話を自分の中だけにとどめず、次の人へ伝えていくことが、大切な役割となっている。
自ら足を運び、声を聞き、その言葉を地域へ返していく。それが宮下さんの語り手としての活動を支えている。

地域のサロンで戦争について語る活動
同世代に伝えたいという思い
丸山さんも、同世代の高校生へ平和について考えるきっかけを届けようと活動している。
豊川高校で毎年8月7日に行われる全校集会で、豊川海軍工廠について発表した。校内の弁論大会や高校生フェスティバルの弁論部門でも、海軍工廠をテーマに取り上げた。
語り継ぎボランティアを始めた頃は、歴史に強い関心があったわけではなく、「人前で話すことが好き」という気持ちの方が大きかったという。
しかし、活動を続ける中で、豊川海軍工廠では自分と同じくらいの年齢の若者たちも働き、多くの命が失われたことを知った。
自分と変わらない年齢の人たちが、戦争によって未来を奪われた。その事実に触れたことで、歴史の見え方が変わった。
これまで知らずに過ごしてきたことに申し訳なさを感じ、知ったからには自分が伝えていかなければならないと思うようになった。
人前で話すことへの興味から始まった活動は、やがて「同世代に伝えたい」という強い思いへと変わっていった。

スピーチコンテストで、豊川海軍工廠を紹介(豊川高校で)

授業改革フェスティバルで豊川海軍工廠を紹介(豊川高校で)
世代が違うからこそ、学び合える
50歳以上の年齢差がある宮下さんと丸山さん。しかし、活動の中では年齢を越えて互いに刺激を受けている。
宮下さんは、丸山さんの姿に、平和への思いが若い世代へ受け継がれている手応えを感じている。高校生活を送りながら語り手として活動し、校内外で積極的に発信する姿を頼もしく見守っているという。
丸山さんは、偶然宮下さんと同地域の町民ということもあり、宮下さんの町内活動に参加することで、自分の世界が広がったと話す。
年代も立場も異なる人と話す中で、地域の歴史だけでなく、さまざまな考え方に触れるようになった。今は高校3年生。地元の大学に行って地域について学び、将来は豊川市に貢献したいという夢を持っている。
語り継ぎの活動は、過去を学ぶだけではなく、多くの人たちと出会い、未来について考える機会にもなっている。
平和のために、まず話し合うこと
丸山さんが大切にしているのが、「正義の反対は、もう一つの正義」という言葉だ。
「戦争の原因は、単純な『善と悪』や『味方と敵』の戦いではなく、お互いの『認識の違い』から生まれるのだと思います。だからこそ、ただ『戦争をやめよう、平和が一番だよ』と言葉をかけるだけでは、根本的な解決にはならない気がするんです」。
本当に必要なのは、自分が感じる痛みや、それぞれが信じる『正義』や『平和への想い』を、お互いに共有し合うこと。武力に頼るのではなく、言葉でちゃんと話し合う。「これは国と国との大きな話だけではありません。友達や家族といった、私たちの日常の人間関係でも全く同じです。戦争を遠い国の他人事だと思わずに、まずは身近な日常のコミュニケーションから変えていけたらいいなと思っています」。
戦争遺跡の「旧第三信管置場」 弾丸の起爆装置を保管していた。
豊川の歴史を、未来へ
戦後80年以上がたち、豊川海軍工廠空襲当時の状況を次の世代に伝えることは、今や、戦後生まれの人たちに委ねられている。そんな中、豊川海軍工廠の歴史を語り継ぐ活動は、この8年間で、第1期、第2期、第3期の語り手へと受け継がれている。メンバーは2026年7月時点で、60~70代を中心に69人が在籍。交代で公園に在中し、訪れる人たちに戦争遺跡を案内したり、歴史を伝えたりしている。一人ひとりがそれぞれの思いを胸に、ボランティアをしている。
戦争体験者の声を自ら訪ね歩き、地域の記憶を丁寧に掘り起こす宮下さん。その思いを受け取り、若い感性と言葉で同世代へ伝える丸山さん。
世代も経験も異なる2人だが、目指している先は同じだ。
「豊川で起きたことを忘れず、1人でも多くの人に知ってもらうこと。そして、平和について考え、話し合うきっかけをつくること。8月7日は豊川海軍工廠の空襲があった日。その日を記憶に残すため」
読み聞かせも活動の一環
DATA
豊川海軍工廠・豊川海軍工廠平和公園

豊川海軍工廠(1939年開設・1945年閉鎖)
場所:愛知県豊川市
規模:約200ヘクタール(甲子園球場約50個分)
最盛期は約5万6千人が働き、「東洋一の兵器工場」ともいわれた。
悲劇:終戦間近の1945年8月7日、米軍からの空襲で2,500人以上が犠牲になった。
現在:跡地の一部は「豊川海軍工廠平和公園」となり、戦争遺跡の保存や語り継ぎ
活動が行われている。
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更新日:2026年08月07日