赤坂宿
更新日:2013年1月4日
近世赤坂宿
東海道は古くから開けた街道でしたが、戦国大名の領国支配が進むと、軍隊の移動や国内支配のための交通整備が行われるようになりました。
今川義元は、天文23年(1554年)に伝馬の制度を定めました。
伝馬とは、兵の移動や物資の輸送に備えて、宿駅に乗り継ぎ用の馬や人足を置くことをいいます。天正19年(1591年)には、池田輝政が、赤坂宿あてに毎日馬46疋を常備するように命じています。
伝馬朱印状
慶長6年(1601年)家康は東海道に伝馬制を走め、宿駅毎に伝馬朱印状を出しました。寛永元年(1624年)までに東海道五十三次がほぼ完全に整備され、赤坂宿は江戸から36番目の宿となりました。
伝馬の朱印状には「赤坂・五位」と併記され、当初赤坂・御油宿は一宿として扱われていたと思われます。
その後「下りは藤川から(赤坂を飛ばし)御油まで通し、上りは吉田から(御油を飛ばし)赤坂宿まで」と定められ、上りと下りで使い分けられていた時期もあったようです。
夏の月御油より出でて赤坂や
芭蕉句碑
この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだものです。関川神社境内に句碑が建てられています。
宿のしくみ
狂歌東海道 広重
見附
宿の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、出人りするものを見張ったところです。
赤坂宿見附は東西に設けられました。東は関川地内の東海道を挟む両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にありました。
東の見附は、寛政8年(1796年)代官・辻甚太郎のとき、関川神社前に移されたようですが、慶応4年の町並図では以前の場所に戻っています。
明治7年に廃止されました。
問屋場
問屋場は、伝馬役によって決められた人足や馬を常備し、宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで輸送する事務を行うところです。問屋・年寄・帳付・馬指という宿役人により運営されていました。
宿場のほぼ中央に置かれ、本陣・脇本陣と共に宿場の大事な役目を果たしていたので、宿内の有力者が世襲でつとめることが多くありました。
行書東海道 広重
赤坂宿では、初め彦十郎が本陣と兼務していましたが、文化年間より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行っていました。
本陣
赤坂宿本陣の間取り
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、玄関・書院・上段の間(他の部屋より一段高くなった部屋)を備えていました。
赤坂宿の本陣は、初め彦十郎家一軒で行われていましたが、宝永8年(1711年)の町並み図では、庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が加わり4本陣となっています。4本陣のうち伝統のある彦十郎家は、間口17間半、奥行28間、部屋の畳数422畳、門構玄関付きの大変立派なものでした。
慶応4年の町並み図では彦十郎家・長崎屋・桜屋の3本陣と輪違屋の1脇本陣となっています。
旅籠屋
保永堂東海道 広重
本陣・脇本陣以外の武士や庶民などを宿泊させた食事付きの宿屋を旅籠屋といいました。
江戸中期になって交通量が増えるとともに、旅籠屋の数も増えていったようです。享保18年(1733年)の赤坂宿は、町裏も合わせて家数は400軒でした。その内、旅籠屋は83軒となっています。
旅籠屋は、土間・板の間・部屋・座敷・勝手向・湯殿および雪隠からなり、往還に面したところは二階建てが一般的でした。
大橋屋
旅籠大橋屋
昭和52年3月1日市指定建造物
旅籠屋は、その規模によって大・中・小に区別されていました。
大橋屋は、大旅籠で間口9間、奥行23間ほどありました。旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716年)頃の建築であるといわれています。
飯盛女
人物東海道 広重
もとは泊り客の食事や寝具の世話をしていましたが、やがて遊女化していきました。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と詠まれたように、赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようです。
飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789年)の「奉公人請状之事」には、「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。」とあります。
高札場
幕府の法令布告を掲示する場所を高札場といいました。赤坂宿の高札場は、宿の中央で最も目につきやすいところにあり、高さ2間、間口2間、奥行1間の瓦葺でした。内容は、親子兄弟夫婦仲良くし、奉公に精を出すべきことやキリシタン禁制などです。
赤坂の高札(正徳元年)
陣屋
代官の役宅や屋敷のことを陣屋といい、年貢の徴収や民政全般の管理をしていました。赤坂陣屋は三河の国の天領支配の拠点であり、代官国領半兵衛(1683年から1686年)のとき、牛久保(豊川市)から移ってきたといわれています。
当初、東裏大藪地内に設けられましたが、元禄2年(1689年)に神木屋敷(正法寺と浄泉寺の間)ヘ移転されました。寛政年間(1789年から1800年)以後遠州中泉(静岡県磐田市)の出張陣屋となっていましたが、幕末の三河県成立にともない「三河県役所」となりました。
三河県御印
神木屋敷間取り図
明治2年(1869年)6月伊那県に編入されると、「静岡藩赤坂郡代役所」と改められました。行政の中心地となり、手狭になったため同9月に再び大藪地内に新築移転されました。
赤坂陣屋(明治2年頃大薮)
「村田 五郎左衛門日記」によると、3日間お練りや芝居なども出た盛大な地祭りが行われたようです。しかし、明治4年廃藩置県により伊那県が額田県に合併されると、赤坂陣屋は廃止されました。
陣屋位置図